第九話「老兵は死なず」


それは刹那だった。
全軍を上げた攻撃は成功し、既にかつての城を取り戻すのも時間の問題・・・

誰もがそう思ったとき、それは現れた。

黒く長い髪、赤い瞳、そして背中の黒翼。
あれはどう見ても悪魔だった。

突然あらわれたそれは、一言だけ言った。

「貴様ら・・・少し調子に乗りすぎだ」

それが彼流の死刑宣告だった。

現れた黒い翼は手にもった鎌で命を刈り取り、空から黒い雨を降らせ、
優勢だったはずの人の軍隊は、あっという間に蹂躙された。

目の前のこれはまさに悪魔であり、悪夢であった。

「貴様が指揮官か?よくもここまでやってくれたもんだな、敵ながらおそれいるぜ」
レザレノは答えない。彼は目の前のそれが人ではないことを直感していた。

「ならば語る必要はあるまい」

「あぁん?」
「語る必要はないといった!かかってこい!こうもりなどたたき伏せてくれよう!」

「こうもりか・・・なるほど、腐った目などいらんだろう」
彼の周りの空間がゆがんだように見えた。その次の瞬間

ヒュンッ!

それは吐き出されるように空間からあらわれ寸分たがわずレザレノの左目を貫いた。

「ぐぉぉぉっ!この・・・!」

駆け出す。
それは既に70を越えた老人の速さではない。
彼は、老人であるまえに歴戦の老兵であった。

だから片目を抉られようと、倒れるわけには行かない。
自分が倒れたときは、彼の守る忠誠をも蹂躙されることになるのだから。

「この悪魔めがあぁぁぁ!」

振り下ろされた斧が大地を抉る。
しかしあの男にはかすりもしない。そして・・・

ヒュンッ!

再び吐き出された短剣が今度は左肩を貫く。

「ふはは!片目で俺を捕らえられると思ったか老いぼれが!」

「ぐぅぅ・・・この程度の傷!」

斧を振り上げる。しかしそれを振り下ろす瞬間・・・

ヒュンッ!

今度は右の太ももを貫かれる。

「ぐあぁぁぁ!」

「痛いか?痛ければ許しを請え、俺の前で跪いてわびるなら考えてやらんでもないぞ?」

それは確実にレザレノをあなどっていた。
放たれた短剣はいずれも急所を外し、その瞳は老兵をいたぶることを楽しんでいた。

「黙れ悪魔め!地獄に落ちそびれたというのならわしが送ってやろう!」
踏み込む。気合は十分、この距離ならばかわすことは出来ない。

「すまんな、地獄には一人でいってくれ」
目の前の空間が黒くゆがむ。そこからおびただしい数の短剣が吐き出される。

「ぐ!」
吐き出されたそれは八本。いずれもレザレノに命中し、一本は心臓を貫いている。

だというのに・・・

「ふん!」
老兵は怯むことはない。迷いなく斧が振り下ろされる。

「ふはは・・・いい気合だ!」
振り下ろされた斧は、突然あらわれた鎌にあっけなく防がれた。

そしてその鎌は鋭くレザレノの首を刈り取りに行く。

「ぐぉぉぉ!」
渾身の力を振るって斧で防ぐ。

体からの出血はひどく意識はすぐにでも飛びかねない。

それ以前に、心臓をつらぬかれ生きていることすら信じられない。

だというのに老兵は死なない。

「うおおおおお!」
叫ぶ。そして斧を振るう。
目の前にいる敵が、己の忠誠を試すというのなら、
彼はここで死ぬわけには行かない。

彼の生きる道は忠誠のみ、
忠誠のために生きる彼は、忠誠をなくさぬ限り死ぬことはない。

「しつこい!」
空間が歪み鎖が現れる。
それは瞬時にレザレノの斧を巻き取り、そしてレザレノを拘束する。

「ふん、無様だな。
生きているというのならそれでもかまわない、せいぜい苦しむがいい」
鎖が絞られる。既に老兵の体は限界だ。

「ぐおおおお!」
だというのに彼は死なない。
動くはずのない体に気合をいれて鎖を引きちぎり斧を振り上げる。

「ぬ・・・ここまでくると笑えないな、そろそろ消えろ」
悪魔の声にこたえるように、地面から現れたのは全身紫色の泥のような獣。

それはレザレノを飲み込もうと、口を広げて這うように前進する。

「おのれえええええええ!」
彼にとって死は恐れる対象ですらなかった。
しかし、己の忠誠を試す試練に敗れて死ぬことだけは許すことができない。

振り上げた斧を全身全霊で振り下ろす、それが彼の最後の抵抗だった。

「ちぃっ!死にぞこないが!」
ドォォォン!

振り下ろされた斧は地響きとともに大地をえぐり、
彼の周りは巨大なクレーターと化す。

おそらくあの悪魔はこの爆発でも生きているだろう。
レザレノのそれは推測ではなく確信であった。

しかし己の体はもはや動かず、息を吸うことすらままならない。
ならば彼の役目は終わっていた。
最後に仕えたのが忠誠をちかったレティシアではなく、
モニカだったというのが残念といえば残念だったが、それも些細なことだった。

「レティシア女王・・・最後まで盾となれず・・・死にいく老兵をお許しくだされ」
忠誠に生き、忠誠を守るために死んだ老兵の、その最期の表情は安らかだった。

「ちぃ・・・クズが・・・この俺に手傷を負わせるとは」
それはあの爆発の中でまだ生きていた。

手傷を負っているとはいえ、致命的な傷は一切ない。問題なく戦える。
そして何より、この戦場にはあの懐かしいにおいがしていた。

「・・・この匂い・・・あの女か?
ふ・・・ゴミ掃除をまかされてうんざりしていたが・・・案外ついているな」
そういって悪魔は翼を広げる。

周りを取り囲む有象無象の兵など眼中にはない。
目指すはただ一つ、敵本陣にいるモニカのみ。

森を駆け抜ける。
胸の中に渦巻く不安の正体がつかめないまま、
ただがむしゃらに森を駆け抜ける。

この森を抜けた先は、おそらく本陣だろう。
今は一時でも早く駆けつけなければならない。

「ちょっとキース、それにロイドも!あんたたち全力疾走しすぎよ!
私やセレスもいるんだからもうちょっとゆっくり走りなさいよ!」

「わりぃレティシア!お前は後からゆっくり来い!」
キースは足を止めずに答える。

「すまんセレス!先に行く!」
それにならって後ろから呼び止める声に、素っ気無く返してさらに先を急ぐ。

ロジャーとフレイは、キースの放り出した近衛をまとめてから
付いてくるだろうからさらに後からくることになる。

とてもじゃないが、それまで待っていられない。
この不安が思い過ごしであることを早く確かめなくては。

そして森を抜ける。そこは死地だった。
兵士と魔物の死骸が折り重なって倒れている。その中心でそれは起こっていた。

「・・・!モニカ!」
視線の先には肩を貫かれ苦悶に顔を歪める少女、
そしてそれを黒い翼をはやした男が下卑た目で見ている。

「え?ロイドさん・・・どうしてここに?」
少女が驚いた表情でこちらをみる。だがそんなものももう視界に入らない。

「おまえええええ!」
体が爆ぜる。何も考えずに地を蹴る。

距離は100メートルぐらいだろうか・・・
次の短剣が放たれる前に、なんとしてでもあの男を止めなければならない。

「ん?誰かと思えば・・・騎士さまのご登場か」
男がこちらに向き直る。こちらに話しかけているわけではない。
どうやら、キースに向かって話しかけているようだ。

「シェダアアアア!」
キースが地を蹴る。その速さは普段の彼とは思えない。
一気に間合いを詰めて、槍を突き出す。

「どこを狙っている?」
しかしそれも難なくかわされる。

「ふ・・・狂化はしないのか?それでは俺には勝てないぞ?」

「黙れ!あれは使わねぇ!そう約束した!」

「そうか・・・なら消えろ」
鎌が振るわれ、それと同時に空間がゆがみ16本の黒い短剣が現れる。

「消えるのはお前だ、シェダ!」
振るわれる鎌を受け流し、次いで放たれた短剣をかわして側面に回りこむ。

「終わりだ!」
槍が意思を持つ。ただ一突きで敵を貫通せんと槍が突き出される。

「人の身で俺を殺せると思うな!」
またも空間がゆがむ。
男の足元から伸びた鎖は槍をからめとり、そのままキースを縛る。

「く・・・」
「ははは!いい様じゃないか!だが楽にはしなせん。
じっくりと鎖で絞められて死ぬがいい」

男が勝ち誇る。
それは一瞬の隙、しかしこの状況においてはこれ以上ないほどの隙だった。

先ほどの一瞬の攻防で、相手の手の内は見えた。
空間がゆがんでも、一瞬のタイムラグがある。

それを考慮すれば、この距離からでもしとめられる。

「もらった!」
地を蹴って一気に間合いを詰める。

「何!?」
男の顔が驚愕したものに変わる。
しかし、もう遅い。

奴の敗因はキースに気を取られ、
接近するもう一人を雑魚と侮ったこと。

「ちぃ!」
空間が歪む。その空間から放たれるのが短剣だと信じて軌道をよむ。

ヒュンッ!

案の定放たれたのは黒い短剣。難なくかわして近接する。

「はぁっ!」
剣を振るう。単調な動作、しかしだからこそこの場において最速の攻撃手段。
男を逃さず切り払う。

「ぐぅっ!」

「仕留めたか!」

「まだだロイド!首を飛ばせ!」

「ふん・・・遅い!」

黒い翼が広げられ、男は瞬時に空中に逃げる。

「逃げるのか、シェダ!」

「ふん・・・少し形勢が悪いようだしな、ここは素直に引いておく」

黒い翼が天高く飛び上がっていく。
それがちょうど空の向こうに消えたころに、
森の方角からは到着したセレスとレティシアの声がした。

「ロイド大丈夫?」

「ちょっとキース・・・あんたその鎖何よ?」

「俺のことはいい、それより今はモニカの手当てをしてやったほうがいいと思うぞ」

「え・・・モニカ!セレス、早く治療を!」

「わかってる!」

セレスの治癒魔法が唱えられる。あの怪我ならセレスの治癒魔法で十分治るだろう。

「く・・・急に疲れてきたな」
がらにもなく安心してしまったのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら、ロイドは深い眠りについた。