Please sing your name for me.\


 鳴き声が――

 絶望という概念そのものが、音の形となって辺りに響き渡った。

「竜だ!」
 俺たちは洞の外へと飛び出す。

 雨は小止みになっていた。これなら長靴が無くても十分だ。
 俺は辺りを見回す。

 そして――

 青い、蒼い、その竜が、暗黒の森の木々の間からその巨体を現した。


 俺は左腰の鞘から短剣を抜き放つ。

 その瞬間。

 蒼竜のその瞳がこちらを捉えた。


「あっ」
 一瞬だった。

 目が合った瞬間。俺は竜に囚われた。
 絶望が俺を支配する。
 あの日の光景が、死という意味そのものが、俺の中でこだまする。
 ルティアの声が、鈍い音が、俺の絶叫が、光の粒子が、血が、死が――。

「……ル! アル! しっかりして!」
 プリスの俺を呼ぶ声で我に返る。

 竜は着実にこちらとの距離を縮めていた。
 だが、それほどでもない。俺が呆けていた時間は数秒だ。

「大丈夫だ、プリス。踊ってくれ」
「わかった」

 プリスが舞い始める。
 舞いそのものが呪文の代わりとなる。吟遊詩人の舞踏魔術。
 サポーターズ。続いてセーフガード。
 その効果により二人の神経が精度を増す。

 そして、
「オールライズアビリティ!」
 俺は身体が一回り大きくなったような感覚を覚える。
 あらゆる能力が強化される。強化魔術。

 俺はプリスの負担を軽くするため呪文を唱える。
「世界を取り巻きし大気よ。我は奪う。そして与える――ネイトマナ」
 大気に満ちるマナを奪い、プリスへと与える。
 彼女が失った魔力が、周囲の大気より徐々に補填される。

 準備は整った。

 竜との距離はあと十数歩。
 竜が鳴き始める。

 人間には発音することすら出来ないコトバ。だが世界そのものに干渉する呪文の意味は知らずとも、理解できる。
 この呪文はモノボルトだ。
 だが――

 プリスがハープを爪弾く。
 演奏魔術「バインドボイス」が効果を顕す。
 敵の発する音声を、その逆の波形を持った音で相殺し魔術の使用を否定する。

 蒼竜最大の脅威である魔術は封じた。
 直後、発動しない魔術に竜は一瞬の戸惑いを見せる。

「殺す!」
 それを機に俺は竜に向かい跳躍した。
 一瞬で十歩の間合いを詰める。

 俺は竜の腹に短剣を突き立て――
 しかし、鈍い音を立てて短剣が根元から折れ飛ぶ。

 バックステップ。一旦距離を取る。
「さすがに竜の鱗。エンチャントしたハプン程度じゃ役に立たないか……。だが、これなら――」
 俺は右の鞘から別の短剣を抜いた。

 波打った特殊な形状の刃。それは持つ者に力を与えるという最強の魔法短剣。
 カチハプン。
 四日間、プリスと共に不思議の国の裏くるみゾーンに篭り、死にそうになりながら手に入れた最高の代物だ。

 俺は再び竜に挑む。
 しかしその時、竜が大きく息を吸い込んだ。
「ブレス!?」

 俺は息を止め、とっさに左側に身を投げる。
 刹那、直前まで俺が居た空間を真っ青な炎が焼き尽くす。

 青い炎は赤い炎より温度が数百度は高い。
 俺の両足は炎に直接触れていないにもかかわらず、一瞬にして火傷を負っていた。
 息を止めていなかったら肺も焼かれていただろう。

「くそっ」
 痛みを堪え、無理やり立ち上がる。

 そこへプリスの爪弾くハープの音色が鳴り響いた。
 演奏魔術「インクリースヘルス」が癒しの音色を奏で、俺の怪我を徐々に回復させていく。
 両足が感覚を取り戻す。

 と、同時に竜が再び息を吸い込む。
 同じ過ちは繰り返さない。俺は力をため、ぎりぎりまで竜の注意を引き付ける。
 竜が息を吸いきり、その呼吸が一瞬停止する。

 その瞬間、俺は右前方へと跳躍した。

 竜の吐息はその口から放射状に広がる。つまり、竜に近ければ近いほど炎の範囲は狭まるはずだ。
 案の定、その吐息は俺の左頭上の狭い空間を焼いただけだ。

 俺はそのまま接敵する。
 半歩の間合い。
 カチハプンを突き出す。

「貫け!」
 魔力を持った短剣は易々と竜の鱗を切り裂いた。
 そのまま俺はめった刺しを竜に見舞う。刹那にして十数回。
 削れた鱗が宙を舞い、竜の蒼い血が霧となって噴出す。

 竜の絶叫が響き渡る。
 だが、この程度で絶望そのものとまで言われた魔獣が死ぬはずも無い。
 俺は再度竜の吸気を察知し、その場から離れる。

 直後、竜は己の身体をも巻き込み、炎の吐息を解き放つ。
 体内より発生させるその炎が体表に触れたとしても、何の痛痒にも感じないのだろう。
 自らを千数百度の炎の中においても平然としている。竜にとっては当たり前なのだろうが、俺は恐怖を禁じえない。

 その時、荒々しいギターの音色が鳴り響いた。
 バードヒステリック。
 特殊な超音波が竜の脳を揺さぶり、その視界をブレさせる。

 だが、竜はまたしても息を吸い始めた。
 俺は跳躍のタイミングを計り、その場で力を貯める。

 しかし――竜が俺に背を向ける。
 竜の狙いは俺じゃない!

 竜の向く先にはプリスの姿。
 ギターの音色に怒りを覚えたのか、竜はターゲットをプリスに変更している。

「あっ」
 ギターを握ったままプリスはその場で硬直する。
 竜と視線が合った時の俺のように、竜の目に呑まれたのだ。

「逃げろ!プリス」
 俺は絶叫する。
 そして走る。

 あの時のように。

 ――そして

 ――時が

 ――その歩みを。

 ――緩めたかのような

 ――すべてが緩慢とした

 ――流れの中で

 ――あの時の光景が

 ――フラッシュバックする

 彼女を狙う竜――彼女を狙うウッドノカン――が。

 炎――丸太――が。

 俺――俺――は。

 間に合わ――間に合わ――ない。

 間に合わ、ない。
 間に合わない間に合わない間に合わない間に合わない間に合わない間に合わない
 間に合わない間に合わない間に合わない間に合わない間に合わない間に合わな……

「ああああああああああああああああああっ!」

 俺は腰に手を伸ばす。
 そこにある丸い塊を力任せに引きちぎり、
 竜の背へと投げつけた。

 刹那、爆音が鳴り響く。
 辺りに砂の粒子が舞い。竜は驚愕に攻撃を停止する。
 サンドボム。

「同じ過ちは、二度と、繰り返さない!」

 俺は三度竜へと跳躍する。
 カチハプンを逆手に持ち替え、こちらを向いた竜の喉に、深く深く、突き立てる。

 だが、その時、無情にもバインドボイスが効果を失った。

 竜は断末魔さえも攻撃の手段とし、俺への殺意を具現させる。
 蒼い炎と赤い炎が俺の視界を埋め尽くす。
 竜の放つブレスとファイアウォールの十字砲火が、俺に死という意味を押し付ける。

 そして竜は自らの絶望すら辺りに振り撒くかのように絶叫し、霧となって蒸発した。

 薄れ行く意識の中で、俺はプリスの無事を見届ける。

 俺は竜を神に捧げることを忘れていた。

 ただ、プリスの無事だけがそのときの俺のすべてだった。